青い皿

45歳の告白

幸福と仕事 生き方

庭の一本の木を眺めていて、思うこと。

木は、どうして成長するんだろうって。

木にも、意思があるんじゃないか?って。

 

先日、仕事で訪問している中学校の先生がいいお話をしていた。

簡単に言うと、幸福ということを問題提起されていたのだが、

 

私の人生を振り返り、幸福を求めて猛勉強もしたし、出来ないこともできるように努力した、頑張りの先に成功があり、幸福があると思っていた。

が、頑張りの先には、また新たな頑張りしかなく、坂の上の坂状態だった。

幸福は手元に入らず、いつもでも続く頑張りしか残されず。

頑張りは、なかなか人に評価してもらえない、何のための頑張りか・・・自問自答

 

いつしか、頑張りの対極にある「楽する」が、幸福だと錯覚するようになった。

新卒で入った、ブラック企業、受験勉強で頑張ってきたのに、楽することが、楽しいことではない。

また新たな戦場が待っていただけだった。

 

パターン1:「楽する」幸福が手に入ったと錯覚=頑張らなくてもよい=成長がとまる

パターン2:頑張り続ける=幸福が手に入らない「楽できない」=また頑張る=疲弊していく

 

この二つのパターンに陥りやすい、私の思考。

 

確かに、あの頃の自分に言ってやりたい、よく頑張ったと、いろいろあったけど、社会で収入を得て、十分やってきたって。

ただ、心の幸福、こころの豊かさは、むしろ逆に後退してしまっていないか?と。

勉強の先には、今とは違った幸せな人生があると、妄信していた。成長していると思っていたけど、勉強の先に手に入れた、ステータス、ブランド、学歴、、

そんなものでは、私は幸せを感じられなかった。

 

幸福とは、仕事や、勉強や、生き方の先にあるものではなくて、自分の中にあるものなんだと・・・なんとなく薄々感じ始めてきた。

 

人間の強さは、多分どんな時でも どんな過酷な状況でも

この幸福感を持つことなんだって、なんとなくわかってきた。

人は、幸福感がないからこそ、幸福感なところによって来る。

そんな生き物なんだって。

不幸とは、心の持ちよう

幸福とは、心の持ちよう

平常心でいることの大切さ

ささいな日常を楽しめる工夫

 そんなもんなんじゃないかと

 

私の人生を振り返って、将来〇〇になりたいという希望を漠然ともっていたわけ、

私の場合は、現状の不満からかもしれない、、ここでも原動力はネガティブだね。やれやれ。 

 

仕事に幸福を求めていたんだよね。多分、漠然としたイメージの中に。

でもね、仕事に

 

 

そして、仕事

○○になりたいなぁではなく、○○する。