青い皿

45歳の告白

世の中には、いろんな人がいていろんな仕事がある

仕事中に仕事以外のことをしている人は、世の中何パーセントンいるだろうか?

単純労働者には、たぶん作業の連続でたまに短い休憩があるだけだと思う。

そして、ホワイトカラーという層は、たぶん、仕事以外の自由な時間が何割かあるだろう。ブルーカラーとホワイトカラーの違いはたぶんここにある。

単純作業でも、十分な自由時間があり、自由が感じられるならば、ホワイトカラーといってもよいと思う。その自由時間を使って、単純作業からぬけだす時間にするかは本人の問題でもあるが。

ところが、オフィスで働いていても、自分らしさや自由がない、連続した仕事を抱えているとするならば、それはブルーカラーといってもいいだろう。

私は、大卒でオフィスワークもしてきたが、20年以上たぶんブルーカーラーから出られないでいる。周りにアピールすることは、取り繕っているようで嫌だったし、モクモク仕事をしていることで、現実から逃れていたかもしれない。結局数年かけた仕事経験も、そう評価されなかった。相手を知ること、仕事仲間を理解すること、そこで、自分の立ち位置を柔軟に変えて、最も優位な立場を構築し、アクションを打っていく、そんな行動がひつようだったのである。ところが、私は私に拘り続け、私の行動理論により行動し、私なりの状況判断で、すべて通してきた。 周りから見れば同じミスをしていると思わrていても、私なりの理屈があり、心のどこかで、自分は正しい行動をとっていると思っていた。 中には、外因的におかしなこともあったが、それと混同して処理していた。 

仕事には、マーケティングが必要だと、分かったのは、45歳にもなった今だ。 

学生の時は、テストの点が評価になり、点数がすべてだ。

だが、社会は相対的評価である。相手(絶対的理解者・正解者ではない)がいて、置かれた状況(理不尽な立場であることもある) がある。

マーケティングをして、自分で仮設をたて、最大限自分が周りがうまくいくよう立ち振る舞う、それに向かってPDCAを回す。そして、その得た結果から次の行動をとっていく。時には、それが私の目には、うまくやるやつ、世渡り上手って皮肉っていたことだ。しかし、マーケティング理論で考えると、これは正しい行動なのだと。最大限評価されるために、個人がとる最大の手段である。 自分の枠・意識にとらわれることが、どんだけ自分ん不利益になるか、もう一度考えるべきである。

自分を100%出して、許される相手と場があるが、逆に、100%出すと、怒られ嫌われつ相手と状況がある。

よって、場や状況をうまく判断し、相手のことをよく知り、うまくやっていくマーケティング思考が生きていく上では役に立つのである。45歳にしてようやくわかった。

今後、何かうまくいっていないときは、マーケ思考で物事を処理していこうと思っている。

だからだ、学生のままの評価基準で動くと、当たりはずれが多く、行動の見直しをしないため、一向に失敗から抜け出せない、スパイラルに陥る。

そんなことが分かったのも、この年になってからというのが。これからのチャンスになるのか。どうなのか。

ブルーカラーからホワイトカラーへ行くには、たぶん思うに、周りからの応援と適度な自己主張、肯定感とでもいうか、私はホワイトカラーであるという思い込みも必要な気がしてならない。 社会に出れば、いろんな仕事がありやりたくない仕事は、ブルーカラー層に押し付けけられていく、そんな光景は何度も見た