青い皿

45歳の告白

なぜ仕事を辞めなかったか

いままでのリタイヤ(退職)(辞める)したことについて考察していこう。

 

まず、学校での卒業は、リタイヤではないよね。学校は期間がきまっていて、必ず卒業がある。だから定年退職は、私がこれから語ろうとするリタイヤには入らない。

卒業が、あるからこそ学生時代は美しいし、限られた時間の中で吸収し成長していく、そういうもんだろう。 もっと大きい人生についての死は、ここで話すリタイヤには入らない。

 

ランダム的に思い当たるのは、

A社を退職した(2003)、B社を退職した(2019)、でっかいのはこのぐらいだ、もしもだが将来離婚とかあれば、、離婚(20XX)もリタイヤだ。

他、習い事を辞めたピアノ(中学生)、茶道・楽器(転居に伴い)、

意外と、思い浮かばないのだ。

最近だと、パート(1カ月程)、派遣(1年)、まぁ、こんなところだろう。

 

そう思うと、何かを始める時は容易に入るのだが、その後だ、自分の時間と労力を使ってきたものを辞める時は、どれもやめる時期をこじらせていたりしている。やめる理由もどうだろう、初めの会社なんて、辞めたい気持ちは1年目からあったのに、決行したのが5年目なんて・・そんな無駄な時間をすごしていた。そこでは、思い込みや、まわらいの子たちを見て、自分の気持ちを押さえていたよね、責任感と給料だけで働いていた。スキルを得るわけでもなく成長していたわけでもなく、どちらかというと自分という資源を浪費しつづけていた、自分の時間と体力・・・あんな若い大切な時期にである。さらに人間関係によるストレスも抱えてて、よくも5年もいたもんだと、思う。

耐えて耐えて、耐えてたね。 何のために? あのころの自分に言ってやりたい。耐えても耐えても、そこじゃ、なりたい自分にはなれないよ。ってこと気づけ。

辞める時も、周りに礼を尽くしたね、周りはどうであれ、どんな人間関係であれ、それはそれで大したもんだよ。私。でもね、本当の意味で、あの頃私があそこで仕事をし続けたことで、自分を作るという意味での成長にはなんにもならなかった。それは確かである。

そこにいる目標はあるか?ないなら、さっさとやめろ。20代ならなおさら。自分の資源をそんなことに使うな。私は5年を無駄にした。そして、目標にたいして努力しろ。常に目標は、何のためなのか、目標設定は常に疑うべし。

 

次、B社を辞めた時、この会社10年以上いたんだよね。しかもほとんど給料上がらなかったし、、働き盛りの時代だけど、自分の中にもう「安定」したいって気持ちが大きかったのかもしれない。この会社にいる時に、なんとか結婚もしたし。子供も3人で来たね。そういった意味では、成功したともいえる。だけど、その後、家庭とのバランスが取れなくなって、プラス私の体力もなくなってきて、年齢も40になって。

続けられない、というのと、仕事をしても評価がよくない、子育て、育児の合間の貴重な自分の時間を使っているにもかかわらず、評価が低い。ことも、辞める後押しをしたと思う。今の私(家事育児家庭のこと)には、効率よく稼げる仕事ではなかったし。生活を幸せにしていなかった。からだとおもう。それに40代過ぎると、管理の仕事であたり、それなりの仕事を求められるけど、何かが違ったのよ。

自分は会社で出世をもとめてない、なら給料は安い、そして新卒となんにも変わらない給料で働くのは、40代老体にはきつい。残業も同じだけするなんてばからしい。

そこでも、私にとっては目標なんかなかったわけです。給料さえもらえればよかった。

 

でも、会社で働くことはいろんな保障がある、うまくやれば享受していけるだろ。身分だったり、給料だったり。でも会社を一歩でれば、そんな身分も給料もゼロになる。それが会社員でいることの、最大のリスクである。

だから、40を過ぎたら、なにがなんでもしがみつく構造が産まれるわけである。スキルのない40代が社会でいきていくのは、相当きつい。そして、会社が不況の時、真っ先に切り離していくのはこの40代以降の社員である。 

こんな構造はもう成り立たない時代に今いる。昔は、こんな使えなくなった(会社が教育してこなかった)社員が大事にされて残っていた日本の企業。でももう使えない。

社会になってきたってことだろう。そうそう、

私が新卒で入社した会社なんて1999年。まだこんな社風でもよかった。それにそんなに高い教育レベルの人間でなくても務まる業種だったから、いまもその社風は残っているだろうし、ある意味だれも参入したいとは思わない会社である。

業種選びは真剣に

どんな人の層があつまる集団組織か、どんな人が入ってくるようになっているのか。

目標は捨てずに生きよ。いつでもだ。

 

家事も子育てもたくさんすることがある私が、仕事を再開しようと思う心底は、自分を何者かであると証明するためかもしれない、自分が感じられないのだ、感覚的に何もないからだと思う。 感覚的に自分を持っている人は、強い揺るぎがない。