青い皿

45歳の告白

自分というトンネル

何かに躓いたとき。

石ころだったのか、大きな壁だったのか、それはもはや問題ではなく、

どうやって立ち上がったか。それは意識の仕事かもしれない。

人生は選択の連続というが、その選択は誰がしているのか?

長い間それは、自分だと思っていた。

どうやら、仏教や西洋文化、日本語、英語を持ってきて、

自分が何か考えるとそれは、自分はないことにたどり着く。

人が自分という言葉を口にするとき、何か変な感じを覚えることはないか?

私は、女である。私はかわいい。人は常に流動的であり、変化していく。

10年前の私と、今の私が同じだろうか? 昨日の私と今日の私は、どこか違うはずだ。

でもそれが自分だと脳が勝手に思っていることだ。

人間とは、非常にもろく危うい生き物である。

脳は、いろんなことを解釈し、私たちの意識に現れ、様々なことをやらせる。

無意識が大事だというのは、ここに通じるからかもしれない。

 

若いころ自分探しの旅に出て、ついに自分に会えなかったことはないだろうか?

自分が思っている自分と、他人から見た自分が違うと感じることはないだろうか。

ながらく疑問だった。

人は考えるとき道具を使う、つまり言葉である。その言葉の概念が現実とずれていることを認識しておかないと、人は倫理をも超えた非情なことができる動物である。

人前で緊張する私、できないと思う私、そんな自分はそもそもいないのである、脳が作り出した虚像を自分と思っている。

 

自分は、変化する体のことであり、あらゆる反応のくりかえりともいえる。

 

よって、自分はこういう人間だ、こういう風に思われたいと思うことが、どんなに意味のないことか、今までの私に送りたい。